一つの言葉が脅威にもなり、救いにもなる

人の心とはなんて難しいのだろう。言葉に簡単にはできない。でも、たった一つの言葉で感情が乱されることがよくある。何気のないただ一つの言葉で。

発した相手には何の悪意もなくとも受け止める側には悪意を感じて心を痛めることがある。しかし、難しいもので、悪意があったとしてもなかったとしても、相手にそのことについて問いただすことなどできない。

「さっき言っていたあれは私へのあてつけですか?」なんて聞けばお互いの関係にひびが入るだけだ。しかし、言わなければいつまでたっても心のしこりが取れず悩む。

傷を負ったまま相手と接していかなければならない。心というのは簡単には壊れないようにできているが、ちょっとしたきっかけで、重荷を背負それが続くと、心が悲鳴を上げてくるのが聞こえる。

だけども、心が傷ついた人はたいていの場合その傷がどこまでのものなのか理解できない。自分ではわからない。目で見てわかる外傷なんかよりもたちが悪い。何せ誰にも見えないものなのだから。

私が鬱病を患った時、私自身もそれに気付くことはなかった。ただ、だんだん気力が削がれ、働くのが億劫になっていき動くのが嫌になってきた。

周りはそんな私を心配してか旅行へ連れて行ったり、買い物に行ったりと外へ連れ出そうとしてくれるが、それがしんどくてならなかった。

そんな私に対し、職場の上司は「皆に迷惑をかけているのだから早く出てこい。」ということだった。疲れていた私の心はさらなる負荷を得てさらに深く沈みこんでしまった。もっとも、気力を失った私を心配して周りは心療内科の受診を勧め、私は受診した。

その時には鬱病と診断され、働く事が禁止され、休む事を勧められていたのだけど。「心を休ませてあげなさい。」との事だった。心の休息には私の場合2か月は必要と言われ、休んでいたが、職場がそれを許さなかった。

突然の異動を言われたのだ。疲れていた私は、もうここでは働けないなと思い、ほとんど強制的に親族の権力にものを言わせ退職する方向へもっていったのだ。

辞めるには何か月も時間が必要になるという職場で私はその日のうちに退職を済ませ、辞めていった。心の痛みをわかろうとしてくれない上司への怒りや絶望もあり、そんな職場へのやるせなさもあった。

そして、最後に親族の権力を振りかざしたのは、あなた方がしたことは、公的にちゃんと見ていますよ。という示しだった。

今度同じことがないことを祈っています。という警告に似た願いだった。だけども、かの職場は変わっていないようだ。いつか、誰かが心の病で倒れた時、今の状態で歩み続けるなら大きな代償が必要になることになるだろう。

ただ、一つの言葉で病んだ人は救われるだろうに。一言「今までこれだけのことをしてきてくれてありがとう。もう、休んでもいいよ。休んでもいいのだよ。」という何気ない言葉で。